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東京地方裁判所 昭和55年(ワ)2355号 判決

原告 谷島操

〈ほか三名〉

右訴訟代理人弁護士 町田宗男

同 田沢孝行

被告 後藤典信

右訴訟代理人弁護士 高田利広

同 小海正勝

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告谷島操に対し、金二三〇万円、原告飯村千枝、同伊藝雪子、同高木夏子に対し、各金一七〇万円及びこれらに対する昭和五五年三月一六日から支払ずみまでそれぞれ年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  (当事者の地位)

原告らは、訴外亡谷島登美(以下「亡登美」という。)の子であり、被告は、肩書地で内科医院を開業する医師である。

2  (診療契約の締結)

亡登美は、被告に対し、昭和五四年一月一一日、自己の病状についての診療を求めたところ、被告はこれを承諾し、同年三月二八日まで継続して治療をしてきた。

3  (亡登美の死亡に至る経緯)

(一) 同年二月下旬ころ、亡登美は、異常にのどが渇くと訴えて、たて続けにサイダー、水、ジュースを飲み、また身体がだるいとも訴えていた。

(二) 同年三月一七日から、亡登美は、急速に顔色が悪くなり、身体もやせ始め、身体がだるいと言って被告方に通院していたが、被告は、「運動不足で身体の調子が悪く胃も悪くなったのだから、身体を出来るだけ動かすように。」と言うのみであった。また、亡登美は、被告に対し、このころ、「のどが渇いて唾液が出ない。舌にはこけがはえて痛む。」などと訴えていたが、被告は、「舌は歯みがきをつけて歯ブラシでみがくとよい。のどが渇いて唾液が出ないのは、老人性のものだから心配はない。」と説明し、糖尿病の疑いすら抱かなかった。

(三) 同年三月二三日、被告は、亡登美より「食欲がなくなってしまって力が抜けて何もすることができなくなり、立ち上がることもこわくてできなかった。」と訴えられ、また同月二六日にも「身体がだるくて力が抜けてしまった。」と疲労感を訴えられたが、糖尿病と気づかなかった。

(四) 同年三月二八日朝方、亡登美は、意識不明の状態に陥り、小便をたれ流し、身体も冷たくなっていた。そこで、原告高木夏子(以下「原告夏子」という。)は、被告の住診を求め、被告に対し、「入院させた方がよいのではないか。」と申し出たが、被告は、「栄養失調と脳貧血を起こしているだけで心臓も丈夫だし、血圧も一二〇あるから大丈夫だ。看護しておればよい。栄養失調なのだから、かたい御飯と栄養のあるものを食べさせるように。」と指示した。同日、原告谷島操(以下「原告操」という。)は、被告に亡登美の容態等を電話で問い合わせたが、被告は、「入院の必要はない。二、三日安静にしておれば回復する。」と返答したのみであった。

(五) 翌二九日朝方になっても、亡登美の意識が回復しなかったので、原告操と原告夏子は、相談の上、救急車で有隣病院に亡登美を入院させたが、翌三〇日午前一時四七分、亡登美は、糖尿昏睡により死亡するに至った。

4  (被告の過失)

亡登美の死亡は、次のいずれかの過失によるものである。

(一) 亡登美は、右3の容態を訴えていたのであるから、被告としては、亡登美に対する診断の際、当時の亡登美の症状が糖尿病であることを確定的に診断でき、かつ、その適切な治療が十分可能であったところ、診療契約に基づき医師として亡登美の体調不調の原因を究明すべく診療する注意義務があるのにこれを怠り、感冒、栄養失調又は脳貧血と誤診し続けて適切な処置をとらず、よって、亡登美を糖尿昏睡により死亡するに至らせた。

(二) 昭和五四年三月二八日に、亡登美は、意識不明の状態に陥ったが、老齢であることから、被告には、医師として亡登美を直ちに病院へ入院させるべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠り、前記3(五)のように病院に入院させて検査をするよう指示せず、これにより亡登美を糖尿昏睡により死亡するに至らせた。

5  (損害)

(一) 亡登美の慰藉料 金三〇〇万円

亡登美は、死亡当時七七歳であったが、被告の医療過誤により死亡したのであるから、その精神的苦痛は甚大であり、これに対する慰藉料としては、金三〇〇万円が相当である。

亡登美の子である原告ら四名は、法定相続分に従い、右慰藉料請求権を四分の一ずつ相続した。

(二) 原告ら固有の慰藉料 金三〇〇万円

被告の医療過誤により母を失ったことによる子の精神的苦痛の慰藉料として、それぞれ金七五万円とするのが相当である。

(三) 入院治療費と葬式費用 金六〇万円

原告操は、亡登美の入院治療費金一〇万円及び葬式費金五〇万円を支出した。

(四) 弁護士費用 金八〇万円

原告らは、本件訴訟を原告訴訟代理人らに対し委任し、着手金として金二〇万円を支払い、成功報酬として少なくとも金六〇万円の支払を約した。

よって、原告らは、被告に対し、診療契約の不履行又は不法行為に基づき、原告操に金二三〇万円、同伊藝雪子(以下「原告雪子」という。)、同飯村千枝及び同夏子に各金一七〇万円並びに右各金員に対する弁済期の後である昭和五五年三月一六日から支払ずみまで、民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実のうち、被告に関する部分は認め、その余は、知らない。

2  同2の事実のうち、昭和五四年三月二八日まで継続治療をしてきたことは否認し、その余は認める。

なお、亡登美に対する本件診療は、保険者を訴外国とし、亡登美の扶養者である原告操を被保険者とする健康保険法に基づく公法上の保険給付(いわゆる療養の現物給付)である。したがって、右被保険者の家族である亡登美に対する療養給付の債務者は訴外国であり、保険医療機関である被告は、保険者の行う保険給付の履行補助者にすぎない。

3  同3(一)(二)の事実は、否認する。同(三)の事実のうち、三月二三日に亡登美から(三)記載の説明を受けたこと及び同月二六日に亡登美が脱力感を訴えたことは認め、その余は否認する。同(四)の事実のうち、被告が原告夏子から連絡を受けて亡登美を往診したこと及びその際亡登美の全身が冷たくなっていて意識喪失の状態になっていたことは認め、その余は否認する。同(五)の事実のうち、亡登美を救急車で有隣病院に入院させたことは認め、その余は知らない。

4  同4、5の事実は、いずれも否認する。

(被告の主張)

一  以下の理由により、亡登美の死因は、糖尿昏睡でなく、脳血管障害(特に脳出血)である。したがって、被告には、原告らの主張する誤診はなく、また、被告は、昭和五四年三月二八日、意識不明の状態にある亡登美に脳血管障害の疑いを抱いたから、これを動かすのは危険と判断して経過観察を原告夏子に指示し、直ちに入院措置をとらなかったのであって、右措置に何ら過失はない。

1  糖尿病は、慢性疾患の一つであり、既往歴又は現病歴に糖尿病の徴候のない者が突然発症して糖尿病性昏睡に陥ることはありえない。被告は、昭和四三年以来、亡登美に対し、老人検診や膀胱炎の治療でたびたび検尿を実施していたが、常に尿糖は陰性であり、また亡登美に、日頃糖尿病を疑わせるような自覚症状もなかった。

2  反面、亡登美は、昭和四八年一月一〇日以来高血圧兼動脈硬化症として、被告方で治療を受けており、同人にはその父親が五八歳時に脳卒中で、その母親が五三歳時に心臓病で死亡したという遺伝関係も存する。

3  脳血管障害による昏睡の場合、異常代謝により異常血糖値上昇、尿糖及び尿蛋白などが出現する場合がある。

4  昭和五四年三月二八日に被告が亡登美を緊急往診した際、亡登美に二〇パーセントぶどう糖二〇ミリリットル、ニコリン一〇〇ミリグラム、シーパラ二ミリリットルを静注したが、これにより亡登美は、一時昏睡を脱し、意識を回復した。

5  亡登美は、有隣病院入院後死亡まで約一六時間のうち、たびたびインシュリン注射をされているが、全く反応せず、漸時高熱を発し、昏睡のまま死亡した。

6  亡登美は、昭和五四年三月二九日、有隣病院において採血を受けた結果、血糖値デシリットル当たり一二〇〇ミリグラムと測定されたが、これは、同病院で糖賀(果糖)輸液後の測定であって、この検査値は、全く無意味に近い。

二  仮に、亡登美の死因が糖尿昏睡であったとしても、当時の開業内科医の医療水準によれば、被告が昭和五四年三月二八日当時の亡登美の病状を糖尿病に起因するものと診断すること又はその疑いを抱くことは不可能であったから、被告に何ら過失はない。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1の事実のうち、被告が肩書地で内科医院を開業する医師であることは当事者間に争いがなく、《証拠省略》によれば、原告らが亡登美の子であることが認められ、これに反する証拠はない。

二  同2の事実のうち、亡登美が昭和五四年一月一一日、被告に診療を求め、これを被告が承諾したことは当事者間に争いがなく、《証拠省略》によれば、被告は、以後同年三月二八日まで、亡登美を継続して診療してきたことが認められ、これに反する証拠はない。

なお、被告は、本件診療における療養給付の債務者は、健康保険法に基づき、国であり、保険医療機関である被告との間に契約関係は生じないと主張するが、健康保険上の被保険者は、自己の意思で療養取扱機関を自由に選択できること、療養を受けた被保険者は、療養取扱機関に対し直接一部負担金の支払義務を負う(健康保険法四三条ノ八第一項)のみならず、保険診療開始後、当該療養取扱機関において治療に従事する医師が保険診療における療養の給付では支給することのできない薬材、治療材料を使用する必要を認めた場合、いわゆる自由診療への切替えを行うことができることを併せ考えると、保険診療の被保険者又はその被扶養者である患者と療養取扱機関との間で直接診療契約が締結されると見るべきである。よって、この点に関する被告の主張は理由がない。

三  そこで、同3の事実について判断する。

1  《証拠省略》によれば、亡登美は、被告から昭和四三年二月二一日に上気道炎の診察を受けて以来昭和五四年三月二八日まで、腎盂腎炎、膀胱炎、感冒、高血圧症等の診療を受けていたこと、その間、昭和五三年一〇月七日までの間に数回にわたり老人検診又は腎盂腎炎、膀胱炎などに罹患の際に検尿又は血糖検査を行ったところ、尿糖は常に陰性であり、糖尿病を疑わせるような血糖数値もなかったこと、亡登美の父親は五八歳の時卒中で死亡し、母親は五三歳の時心臓病で死亡したことが認められ、これに反する証拠はない。

2  被告は、亡登美から請求原因3(三)の説明を受けたこと及び亡登美が昭和五四年三月二六日に被告に脱力感を訴えたことは、当事者間に争いがない。右当事者間に争いのない事実並びに《証拠省略》によれば、亡登美は、東京都世田谷区船橋の自宅で昭和五〇年から一人暮らしをしていたが、昭和五四年二月二五日から、同年三月一七日まで米国から帰国した原告雪子が滞在し、その間家事を原告雪子にまかせ、座ったまま運動しない生活をしていたこと、同年二月下旬ころ、亡登美の舌が乾いてザラザラし白くなったこと、亡登美は、三月二三日、二四日、二六日と被告方に来院したが、その際非常に憔悴した状態であったこと、このころ亡登美は、被告に疲労感等を訴え、被告は、これに対し、「運動不足だからできるだけ身体を動かすように。」と述べていたことが認められ、これを覆すに足る証拠はなく、他方、請求原因3(一)(二)の事実のうち、三月一七日に亡登美が被告方を訪れたとの事実は、これを認めるに足る証拠がなく、亡登美が被告に「のどが渇いて唾液が出ない。舌にはこけがはえて痛む。」と訴え、被告がこれに対し同(二)記載の説明をしたとの事実につき、これに沿う原告夏子本人の供述部分は、日常の会話における亡登美からの伝聞であって、《証拠省略》の内容に照らし、にわかに措信することができず、他にこの事実を認めるに足る証拠はない。

3  被告が昭和五四年三月二八日に亡登美の診察をした後、亡登美を入院させるような指示をしなかったことは、当事者間に争いがない。右当事者間に争いのない事実並びに《証拠省略》を総合すれば、以下の事実を認めることができ、これを覆すに足る証拠はない。

昭和四四年三月二八日午前一〇時三〇分ころ、原告夏子が亡登美宅を訪れたところ、亡登美は、布団の上で普段着のまま横になっており、意識不明の状態で失禁していた。亡登美の身体が冷たくなっていたので、原告夏子が「お母さん、お母さん。」と声をかけたところ、亡登美は、「うん」などと応答するのみであった。原告夏子は、亡登美の着衣と布団を取り替えたうえ、被告に電話でその旨を連絡したところ、被告は、直ちに亡登美方に赴き、同日午前一一時ころ亡登美宅に到着した。そのとき亡登美の身体は冷たくなっていたが、脈に触れることができたので、被告は、二〇パーセントのぶどう糖二〇ミリリットル、ニコリン一〇〇ミリグラム及びシーパラ二〇ミリリットルを静脈内注射したところ、亡登美は、意識を一時回復した。被告が「手足動くか。」と言ったところ、亡登美は、うなずいたので、さらに被告が「動かしてごらん。」と言うと、亡登美は、左右の上下肢をゆっくりと動かしてみせた。その時の亡登美の血圧は、九〇から一二〇であった。被告は、脳出血かあるいは一過性の脳血行障害のどちらかであろうから、動かさないで少し経過を見た方がよいと考え、原告夏子が「こういう状態だから入院させた方がよろしいのではないか。」と聞いたのに対し、「一過性のものかもしれないし、脳出血の疑いもあるからこのままなるべく安静にした方がよい。但し、保温だけ十分気をつけるように。もし何かあったら連絡するように。」と答えて帰宅した。

同日の午後四時三〇分ころ、亡登美が熱を出したので、原告夏子は、被告に電話でその旨を連絡したところ、被告は、「気管支炎でも併発したかもしれないのでお薬を差し上げるから取りにいらっしゃい。」と述べた。

翌二九日早朝、亡登美の顔色が青ざめ、どす黒くなってきたので、原告夏子は、不安になり、午前一〇時ころ、亡登美を救急車で有隣病院に入院させた。

4  《証拠省略》を総合すれば、以下の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

有隣病院入院時において、亡登美は、完全に昏睡状態に陥っており、顔色は悪く、皮膚は、じっとりとして冷たくなっていた。当時、有隣病院の医師であった訴外井上泰代(以下「井上医師」という。)は、同日午前一〇時三五分ころ、亡登美にフルクトラクト液五〇〇ミリリットル(二・七パーセントの果糖を含む。)の点滴を開始し、五分後の一〇時四〇分に尿糖及び血糖を検査したところ、尿糖スリープラス、血糖値デシリットル当たり一二〇〇ミリグラム、アセトン臭マイナス、アセトン体マイナスという結果が出た。そこで、井上医師及び有隣病院の他の医師らは、亡登美に対し、ノボレギュラーインシュリン、デキストラン、カルニゲン等を注入するなどの措置を施したが、亡登美は、入院の翌日である三月三〇日午前一時四七分に有隣病院で死亡した。入院時から死亡時まで、亡登美は、最高三九・八度、最低三八・四度の高熱を発していた。

5  そこで、亡登美の死因を検討する。

前示認定の事実並びに《証拠省略》を総合すると以下の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

亡登美は、有隣病院入院時の最初の血糖検査において、デシリットル当たり一二〇〇ミリグラムという極めて高い血糖値が測定されており、その五分前にフルクトラクト液の点滴が開始されているが、右フルクトラクト液が含む果糖が五分間で体内に注入された量は、二八〇ミリグラムにすぎず、その血糖測定値に及ぼす影響はわずかである。また、有隣病院入院後、同所で亡登美についてした血液検査の結果は、ヘマトクリット値五一・五パーセント、白血球数一万一二〇〇、血清尿酸値デシリットル当たり一五・六ミリグラム、血清クレアチニン値デシリットル当たり五・二ミリグラム、血清尿素窒素値デシリットル当たり一〇四ミリグラムであった。これらの数値は、高度の脱水を示すものである。したがって、亡登美の死因は、高血糖性高滲透圧性非ケトン性糖尿病昏睡(以下「NKC」という。)である。

被告は、亡登美が昏睡に陥った原因及びその死因は、脳血管障害であると主張する。

なるほど、有隣病院入院後の亡登美の高熱の原因として脳血管障害(中枢性発熱)の合併の可能性を認めることはでき、かつ、前記認定の亡登美の既往症、父母の死因を総合すると、脳血管障害が亡登美の昏睡の原因であることを否定することはできない。しかし、脳血管障害のみでデシリットル当たり一二〇〇ミリグラムという極めて高い血糖値の発生を説明することはできず、また、鑑定の結果によれば、被告が三月二六日に亡登美を往診した際、ぶどう糖液の静脈内注射をしたところ、亡登美が意識を回復したという事実も、それ以前に原告夏子が亡登美を呼んだところ応答があった旨の事実に照らし亡登美の昏睡がNKCによるものであることを否定する要素とならないことが認められる。

四  (被告の過失の有無)

1  そこで、被告が亡登美につき、その病状が糖尿病に起因するものであると診断し、又はその疑いを抱くべき注意義務があったか否かを検討する。

前示認定のとおり、昭和五四年三月二八日以前に、亡登美が被告に極度の脱水を示す症状を訴えたとの事実を認めるべき証拠はなく、また、従前より亡登美には糖尿病の症状がなかったのであるから、亡登美が昭和五四年三月二三日に被告方で診療を受けてから三月二八日に昏睡状態に陥るまでの間、被告が亡登美に対し血糖検査を行わなかったことは、無理からぬことであると言わなければならない。

また、前示認定のとおり、三月二八日に被告が亡登美を往診した際、亡登美は、NKCに罹患していたものと認められるが、《証拠省略》によると、NKCは、従前から糖尿病の症状がないか又はその典型的な症状を示さない人に発症し、発症から二、三週間かけて症状が徐々に進行して昏睡に陥るというものであって、その発症は、患者に極度の脱水症状があること、又はその血糖値の測定以外に知りうる方法がないこと、糖尿病の専門医でさえ、この発症を診断するのは困難であることが認められ、これを覆すに足る証拠はない。

そうだとすれば、被告には、亡登美につき、昭和五四年三月二八日までに糖尿病の発症を疑い、又は同日にNKCの疑いを抱くべき注意義務があったと認めることはできない。

2  次に、被告が昭和五四年三月二八日に亡登美を往診した際、被告に亡登美を病院へ入院させるよう指示する注意義務があったか否かを検討する。

前示認定のとおり、亡登美に脳血管障害の疑いがあったことは、否定することができず、被告が脳血管障害と考えて亡登美を安静にしておくよう指示したことは明らかである。

《証拠省略》によれば、最近の脳血管障害の対策としては、患者を即刻検査して、CTスキャナーにより手術をするという措置が考えられるようになってきており、亡登美が高齢であることからも、被告は、亡登美を早期に入院させる措置をとるのが適切であったと認めることができる。

しかし、《証拠省略》によれば、脳血管障害の対策としてCTスキャナーが用いられるようになったのは、最近のことであり、従前からは、患者を安静にするという措置が脳血管障害の対策と考えられていたことが認められ、これに反する証拠はなく、また前示認定のとおり、三月二八日に被告が亡登美を往診した時点において、亡登美は、完全には意識を失っておらず、原告夏子や被告の呼びかけに対して反応を示しており、このことから被告が一過性の脳血管障害の可能性もあると判断し、安静にしてもう少し経過を見ようと考えたことが直ちに不当とまでは断じ難い。

そうだとすれば、被告の右措置は、適切なものとは言い難いが、右の状況の下において、被告に亡登美を直ちに病院へ入院させるよう指示すべき注意義務があったとまで認めることはできない。

四  結論

以上の次第であるから、その余の事実を判断するまでもなく原告らの請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条第一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 元木伸 裁判官 富越和厚 萩原秀紀)

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